○開業したてのころ
平成4年に脱サラをして池袋の某会計事務所に修行に入りました。
1年半ほどしてそこをやめて練馬に事務所を借りました。平成5年も暮れようとするころでした。寒さが身にしみましたね。
ほとんどお客様もないのにオフコンを買うわ、人を雇うわ、家賃が15万円もする事務所を借りるわ、殆ど放漫経営状態でしたね。

不安感とやる気の交差する日々というのでしょうか。家賃がもったいないので休みでも事務所に来ていました。そのくせが今でも抜けません。

収入がないので、失業保険をもらいにいったら、「税理士さんは事業主だから、収入がゼロでも業保険はもらえませんよ」と、冷厳に宣告されました。ああ無情 
そんなことに気づかなかった自分が情けなかったです。

○サラリーマンのころ
某保険会社で損害賠償の仕事をしていました。暴力団など危険な人々に対応することもしばしばでした。いろいろな意味で修羅場をくぐった生活をしていたなと思います。軟弱な自分の男を磨くような生活でした。

また法律がどのように生活に入り込んでくるのかとか、損害賠償法の本質的なことを身をもって学んだかなと思います。その会社が好きだったので、税理士試験に受かっても骨を埋めるつもりでした。

が いつの間にかやめる羽目になりました。あだやおろそかに受験をするものではないですね。

○おさないころ
富山県の海沿いの漁師町で生まれました。新湊という町です。漁業と製材と製鉄の町でした。つまり漁師と職工の町でした。

少年達は、夏休みになると毎日海で泳ぐという、いわば黄金の日々でした。私は日本のこども達は全部毎日海に入る暮らしをしているものだと思っていました。そんな幸せな少年は少ないのだとあとで知りました。

そんな町で私は小学校から高校まで12年間無欠席を通しました。いまでも家にはその3枚の賞状がありますが、私の家の宝です。

新湊は娯楽が少ない町なので、地元の新湊高校野球部が甲子園に出ると町の人たちの3分の1がバスを連ねて甲子園球場に移動するという町でした。おかげで北陸自動車道サービスエリアのトイレがパンクするという話を聞きました。そんな町を今でもわたしは好きです。いまでも私は新湊高校の校歌をそらで歌うことができます。

いや放生津小学校校歌も、新湊東部中学校歌も、新湊市民の歌も、富山県民の歌も全部覚えていますが、誰も歌ってほしいとは言いませんね。

○富山大学
わたしは新湊高校をでて富山大学経済学部に入りました。富山では大学の序列は、東大の次が富山大学で、早大慶大はその格下ということになっていたので、迷わず富山大学に入りました。いまでも高校では早慶の推薦入学枠がうまらないといううわさを聞きます。

わたしは東京へ出てきて、ひょっとしたら富山大学より、早慶大が格上ではないかということに気づいてひそかにショックを受けました。
でも地元の人がいいといえばそれでいいのです。

○中村ゼミ
大学時代の生活は赤貧洗うがごとしで、教科書も買えないありさまで、であまり授業にもゼミにも出ずにアルバイトに精を出していました。
中村ゼミは商法のゼミでしたが、本当に勉強しない学生でした。
ちなみゼミの歌は教授の名前から「おーい中村君」でした。中村ゼミの歌はいまでもそらで歌えます。中村教授は今は大東文化大学の教授であらせられます。
教授に以前お会いしたら、劣等生がどうして税理士になっているのかといぶかしげな目つきでありました。

○父と母
父は婿入りしたくせに、婿入り先の財産をばくちですったような人です。あのころどうやって暮らしていたのか不思議です。もっとも税理士開業したてのころの自分もどうやって暮らしていたのだろうと思います。父は99歳で大往生しました。

母はこどもころはいい暮らしをしていたのに父のおかげで貧乏になったと、愚痴っぽい人でした。
母からうつった愚痴っぽさをいかに脱却するかが若いころの自己改造のテーマでした。父も母もいまはもう泉下の人となりました。

○私を支えた言葉
ながなが書いたものを読んでいただきましてありがとうございます。ひとさまに自慢できることのない人生ですね。いいも悪いももう超越しました。
こんな人間でも生きてこれたのは、ありがたいことと感謝しています。だから次のことばが、とても好きです。聖書に書いてあるらしいですが。

何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。
命は食べ物にまさり、体は着物に勝るではないか。
空の鳥を見るがよい。
蒔くことも刈ることもせず。倉に取り入れることもしない。
中略

求めよ そうすれば与えられるだろう。
捜せ そうすれば見出すであろう
門をたたけ そうすれば開けてもらえるだろう。
税理士姫野重雄の半生記
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